日々の泡

いろんなものの習慣付けに使うブログ。ブログ名は頻繁に変わります

「子孫に残すような文章を心がける」ということについて

f:id:yes_ks:20151224024905p:plain

子孫に残すような文章を心がける。

とあるコピーライターはつねに子孫に残すようなコピーを心がけているそうだ。

確かに文章を書くにあたって、読者を想定するというのはとっても大事だ。

それを見失うと本当にどこに向かって書いてるのかわからなくなる。

 

子孫ってまったく実感が沸かない

子どもでもいれば違うのだろうけど、子孫と言われてもまったく実感が沸かない。

 

高校生の頃は好きな女の子に向けて書いていた

わたしは高校生の頃は、好きな女の子がわたしの日記を読み、たまに感想をくれるという恵まれた環境にいたので、文章を書くのがすごい楽しかった記憶がある。

 

大学生の頃は迷走の時代


大学生になると好きな子が他の男性と付き合ってしまい、なんかどこに向けて書いてるのかわからなくなってしまった。

 

芝村裕吏さんいわく「会話とは基本相手のためにある」

「自分のことを話すのではなく、他人の望むことを話すといいでしょう。会話とは基本相手のためにある。そうおもうとうまくいくと思います。 なに、自分のための言葉は、別に口にする必要はないのです」
と芝村さんは会話について語っていたけど、文章や作品なんかもきっとそうだろう。

 

通勤日記は割と自分のために書いている。

考えを視覚的にアウトプットすることで、考えを深めるために書いている。
人に見せるのは「ついで」というか、なんかこう見てもらわないとあんまり書く気は起きない。

 

見てもらいたいならもっと他人のために書くべきかも

他人のために書くと言われてもなかなか難しいよなぁ。
他人が喜ぶような情報が入っていれば、それは他人のための文章なり得る。

 

他人が喜びそうなものとは…

・価値のある文章。
・興味深い情報。
・娯楽性の高いもの
とかそんなのだろうか。

 

確定読者として、絵描きのゆうさんが読んでる。

だいたい、お昼ぐらいに書き途中のものを渡して描いてもらってるけど、読んでくれて、絵にしてくれてるし、たまに感想もくれるので、かなり恵まれた環境である。

正直、かきかけでアップするのも面倒くさいときがあるけど、絵を描いてもらっちゃってるので公開しないといけない義務感が更新を続けさせてくれているところもある。今日なんかとくにそう。

 

他人に向けて書くのではなく、身内に向けて書く。

例えば、手紙とかは他人が読んでもそんなに面白くないけど、差し出して相手にはだいたい面白いものになったりしている。

でも、それだったら一般に公開しなくていいわけで、二人でやってればいいのだけど、それはそれで気持ちが悪い。

 

身内を増やしていくのが楽。

例えば、私の他にも、通勤日記を書きたい人がいたら、同じテーマを共有して書いてもらう。
お互いが同じテーマだったら、考えが共有できるのは面白いので相手の日記も読むはず。

他には絵の練習をしたい人がいるのならば、絵描きもゆうさんだけではなく、数人に増やしていけば、目的を持って読書してくれる人は増える。

 

問題もある。

まえも同じ発想で、ブログメンバーを増やしまくったことがある。
http://iihito.hatenablog.com

爆発的にメンバーが増えて、爆発的に記事は増えたけど、そのまま花火のようにしぼんだ。

人が増えると誰かがやってくれるからやらなくていいというさぼりを誘発したり、人が増えるほど、自分の思い描いた方向から外れていくので、新規メンバーがはいると、ところてんのように古参メンバーがいなくなる。
あとはコミニュケーションをするために読むのも、返事を書くのも時間がかかって負担になってくる。

 

めさき出版なんかもメンバーの入れ替えは結構ある

新しい要素が増えると、元あったものと変わっていくので、人は離れる。でも、まあ、核となる人が折れなければ、いくらでも続く。
この日記も、めさき出版も、わたしが折れない限りは、誰かしら参加者を作ることはできる。

文章というか、コミニュティーの話になってしまった。

目的意図をはっきりさせる必要がある。目的意図が誰かのために設定されていないと、だいたい迷うことになる。

 

この日記の目的は、自己鍛錬

だから、なんのために自己鍛錬しているのか、というゴールをはっきりさせて、それを忘れないようにしなければならない。

 

で、なんで自己鍛錬してるんだっけ。

ま、くそったれな世の中をちょっとはマシにするためにがんばってんだけどな。
最近知った網様体賦活系とかによれば、人は「くそったれな世の中」とか考えると、世の中は本当にくそったれになるそうで、

さらに、ひきよせの法則とかによると「ちょっとマシにするためにがんばる」とかいってると、「ちょっとはマシにするためにがんばる人」になるだけで、どんどん願いからは遠ざかり、叶わなくなるらしい。

 

ひきよせの法則が嫌いな理由

なんか腹立たしいんだよなこの理論。
なんかがんばってる人に対して「なにがんばってるのかしら、がんばっても無駄なのに、ププ」みたいな感じだから、俺はこのひきよせの法則というやつが嫌いなのだなと思う。

楽とかつらいとかじゃなくて、問題があって、誰もなにもしないから、みえてる自分が気持ち良く死ぬためにやれることやってるだけじゃねえかと思う。
何もしない人に「非効率に動いてるやつはバカ」みたいに言われるのは腹立たしい。

 

存在証明のために書いている


たぶん、こんなことを考えて生きているやつがいるという存在証明のために書いている。
なぜ存在証明をする必要があるかというと、同じような問題や、悩みを抱えている人に対して、一人ではないと伝えるためだ。
なんで伝える必要があるのかというと、まあ、たぶん、わたしは十代の狭い世界の中で鬱屈していたとき、小説や、インターネットで、いろんな経験や、物事の見方に触れてだいぶ救われたところがあるからだろう。

 

つまり、もっと緊急性の高くてデリケートな問題に触れる必要がある。

結局、悩める十代に読んでほしいのだとしたら、それは「祖先に読んでもらう」という話とつながってくる。
いま十代の読者がいないことは「祖先」というようにいつか読んでもらえればいいのだから、さして問題ではない。

 

もっと、十代に向けて書いてみる。

架空の十代の少年を想定してみて、彼に自分の考えがわかるように伝える文章を書けるようになるといいのかもしれない。
つまり、もっとくだけていて、たまにユーモアがあって、力強いやつ。
ちょっとそういう感じに挑戦しよう。
あともう通勤時間外にもいっぱい書いてるので、そろそろ名前を変えてもいいかも。