日々の泡

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世界の終わりについて。

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世界の終わりについて。

わたしの浅い日本神話知識によれば、日本神話の中に世界の終わりはない。

他国にはそこそこある。
一番有名なのが北欧神話ラグナロックとか、ゾロアスター教のアフラ=マズダとアーリアンの戦いとか、キリスト教の審判の日なども世界の終わりではないだろうか。

日本仏教の地獄や天国は世界の終わり。

審判の日が世界の終わりだとすれば、仏教の天国や地獄は抽象度をあげれば世界の終わりかも。でも、個人で完結できるから、わたしの欲する世界の終わりではないかも。

 

だいたい戦争が起きて世界が終わる。

北欧神話ゾロアスターは2大勢力の戦争の上、なんやかんやあって世界が終わる。
近代でも、「渚にて」といったSFタイトルの世界の終わりは核戦争によって世界が静かに終わっていく。

 

SEKAI NO OWARIも戦争。

虹色の戦争とかドラゴンナイトは戦争の歌。

ちなみにもうようたいふかつけい的にみて、ローマ字表記にすることで、ネガティヴさを打ち消しているので、すごい。

 

インテリジェンスデザイン的世界の終わり

一方キリスト教は審判の日が何故到来するのかはあんまし大きな理由がなく(よく読めばあるのか?)、地球がインテリジェンスデザインされたことと同じ理由で、作者の都合によって終わる。

 

ノアの方舟も神の啓示

洪水によって世界が終わる。これは自然災害だけど、ノアは神からの啓示を受けて箱舟作って動物を乗せてたりするので、自然災害というより神の行いに近い。

 

神話だから当然だけど、神に都合によって世界は終わる。

神話だから当然なんだけど、結局神話における世界の終わりとは、神の都合で終わることが多いようだ。

 

ノストラダムスの予言の解釈にたくさんの世界の終わりが生まれた

温暖化などによる沈没→自然災害&環境破壊(人災)

核戦争→戦争による人災
グランドクロス→天災(コンピューターが暴走するところは人災)
隕石衝突→天災

 

神は置き換えられた。

昔はよくわからなかったから、神様というものにひとくくりにされていたけど、今はより具体的にして、リアリティーを出している。

 

世界の終わりにリアリティーが必要なのは何故か。

それは物語にリアリティーが必要なのは何故かという問いと変わらない。

リアリティーは時代とともに変わる。けど、本質は変わらない、ということはつまり。
世界の終わりとは、人間の都合ではないこと、人間の力では介入できないものが原則的。

 

個人の世界の終わりの場合はこの限りではなく、本人が生きるか死ぬかで大きく変わる。

世界系は個人の死や、生の選択がそのまま世界の選択に直結する。

つまり、世界系の主人公は神ということになる。
確かにエヴァに乗ったシンジくんや、涼宮ハルヒなどは一般人より神よりの存在とも言える。

 

神が死んだのは、それぞれが神になったから。

我々は超人を達成したのだ。島社会はさまざまな神を作り出したのかもしれない。

 

自分が終われば世界が終わる。

大槻ケンヂの「新興宗教オモイデ教」の中で、「主人公は世の中が終わればいいと思っていたけど、自分が死ねば早かった」ということに気づくというシーンがあるけど、まさにこれが世界系の構造。(0年代の世界系作家ってみんなオーケン読んでそうなので、オモイデ教が原型である可能性は大いにある)

 

個人視点になるほど死について受け身にならざるおえない。

神や自然がもたらす死について抗うことはあっても越えることはできない。

 

世界系になるほど、死は能動的になる。

あらゆることに受動的な主人公でも、世界の選択だけは能動的にならざるおえない。そこが物語に焦点になる構造のものも多い。

 

神話→SF→個人の選択

日本の世界の終わりの流行でいうと、神話から始まり、続いて、人類全体に影響力を及ぼすサイエンスフィクション(隕石落下、大地震地球温暖化、核戦争)などに移り、それから「自分が死ねば世界も死ぬ」という流れに移ってきた。

結局、宗教のおける「審判の日がくるくる詐欺」と同じように、ノストラダムスの予言を代表とする「隕石落ちて世界が終わる詐欺」みたいなのを何度も経験するうちに、SFにリアリティーがなくなってしまった。
だから、世界に影響を与えるより、個人の選択によって世界が変わるものほうがリアリティーが高くなってきている説。

 

フィリップKディックの見直し

日本だけではなく、世界的に見ても、映画「マトリックス」を筆頭として、フィリップKディック型の脳内完結SFの映像化が相次いでなされているところを見ると、

世界的に見て、SF的天災による「世界の終わり」よりも、個人の脳内が終わることにより、一つの世界に着目した「世界の終わり」のほうが主流になりつつあるような気もする。
少なくても1ジャンルは築いている。
(ちなみに、アルマゲドンが1998年。マトリックスは1999年公開らしい)

 

個人の中になら神話も共存できる。

個人の中に「神がいて、その神が世界を終わらす」という設定と連動して、主人公や、世界の死が決まるのならば、神話とSFと個人の世界の終わりをいいとこ取りした世界の終わりもあり得る。

 

「ローストビーフと手巻き寿司は両立できる」

どうでもいいが、今日スーパーで隣いた親子。母親が子どもに向かって「ローストビーフと手巻き寿司は両立できると思わない」と聞いていたのが、すごく印象的だった。

 

夕闇通り探検隊」は実は「神がいて、その神が世界を終わらす」系

「あと100日で誰か死ぬ」という予言に突き動かされ、町中を探検することになるのだけど、

それを知っているのは主人公だけで、他の二人は全く別の思惑で探検に参加している。

主人公が最後に取る行動も、世界や、現実で動いている死ではなく、個人がその予言を信じるか信じないかに集約される。
なので、夕闇通り探検隊は「世界の終わり」ではないけど「神話かつ世界系」を両立した作品。
奇しくも世界の終わり作品連発した1999年発表だけど、未だに人気がある理由は、この終わりへのアプローチの複雑性に一つの理由はありそう。

 

ひぐらしのなく頃に

こちらは「雛見沢の呪い」をテーマに、どんどん世界の終わりへと発展していく構造だった。
「サスペンス→神話→SF→神話」とジャンルがころころと変わっていくのが、今まで見たことのない展開で面白かった。こちらは2002年発表。

 

今回のテーマは駅についた後もしばらく考えていた